2004/10/30
下町言葉と山手言葉

東京に移ってくるまで現地人の会話は標準語でなされているものだと思っていたのだが、東京にも東京なりの方言がある。標準語を話すことはできても、東京方言を話すことは私には難しい。あるとき、下町に住む友人宅へ行くとその母親が完全なる下町言葉で未だにヒとシの区別がついていないのを耳にし、少しばかり感動したことがある。

水原明人『江戸語・東京語・標準語』(講談社現代新書、1994年)は、江戸言葉の誕生から東京方言、標準語確立運動の歴史を社会との関わりをふまえて記述したものだ。同書を読むと、下町言葉と東京方言とはわりと縁遠いものだということがわかるし、標準語が必ずしも山手言葉と一致しているわけではないこともわかる。

同書は江戸言葉の紹介からはじまる。江戸は家康が人工的に作った町であり各地方から人口が流入したため、周囲の関東方言から孤立した「言語の島」のようになっている。式亭三馬「狂言田舎繰」には、「江戸の内僅か廿町も隔つと直に違ふ」とあるそうだ。

注意しなければならないのは、江戸時代には身分差が大きい点だ。江戸言葉といっても、町民と上級武士とでは異なる。武家言葉の場合、三河方言が基調になっているという。幕閣内での会話を円滑に運ぶためには三河方言の習得が不可欠となり、武士は学習に励んだ。さらに参勤交代によって各藩の武士が江戸詰するようになると、三河方言を基調とした武家言葉は全国の上級武士の共通語としての性格をもつようになった。

文化は上層から下層へと伝播する。江戸時代の町民は娘のしつけをよくする目的もあって、武家屋敷に奉公にやらせた。娘は行儀作法だけでなく武家言葉も習得する。言葉は父親より母親の影響のほうが大きいため母から子へと言葉が伝わり、時代を下るにつれ武家言葉は町民のあいだにも「改まった場で用いる言葉」として浸透していった。これが山手言葉である。

江戸幕府が崩壊したとき、大規模な人口流出が起こった。天保年間で130万人だった旧江戸市内の人口が26万人(うち23万人は町民)にまで減少している。終戦直後で焼け野原になった東京でも半減だから、その規模がわかるだろう。そこへ入ってきたのが薩長の田舎士族たちと、青雲の志を抱いた若者たちだった。山手に住んだ新興士族たちが会話する言葉を、旧来の町民たちは「ノテのカッペ」(山手の田舎者)と嫌ったという。

明治初期の言語上の2大流行は、薩摩方言と漢語とである。前者は維新の勝者である新政府におもねるためのもので、西南戦争が終わるころまでつづいたという。後者は役人や書生が教養を見せるために使用したものだが、薩摩方言を嫌った町民たちもこれには感化されて、はては芸妓までが「火鉢が因循している」などと使用するようになったそうだ。

そうした流行が下火になったのち、支配層は使用言語として山手言葉を選択した。自らの言語を押しつけなかったのは、江戸に対する文化的な劣等意識があり、かつ山手言葉が上級武士たちの共通語として広がっていたからだろう。ただし、この山手言葉も変化がなかったわけではなく、「よくってよ」などの芸妓同士の会話が上流社会に浸透していった。これは主に、芸妓上がりの婦人同士が昔の言葉で会話しているのを他の女性たちが真似た結果である。

第3章以降は標準語にまつわる話題で、おもに国定教科書とラジオ放送とが取り上げられている。著者は放送畑にいたため、後者に関する記述のほうが具体的でおもしろい。

何をもって標準語とするかは意外と難しいことだが、国定教科書は文部省が決めた標準である。この「標準」が、当時の東京で使用されていた言葉をそのまま採用したものではないことが、「おかあさん」という単語でわかるという。

当時、母親を表わす一般的な言葉は「おっかさん」で、「おかあさん」は主に西日本の一部で使われる言葉であり、東京ではかなり上流の(公家の影響だろうか)女性・子供のあいだで使われていたものである。国定教科書以前の文部省の読本は「ははさま」だった。漱石は『坊ちゃん』の中で、土地の人には「おかあさん」、坊ちゃんには「おっかさん」と言わせている。国定教科書の影響で、いつのまにか「おっかさん」のほうが地方語のようになってしまった。(島倉千代子「東京だヨおッ母さん」。)

近代に入ってから東京の言葉に大きな影響を与えた――すなわち大規模な人口の流動を与えたのは関東大震災である。震災による人口の移動で、「下町」と「山手」の範囲が拡散した。また「見れる」の使用例が震災後の山手に突如として現われるなど、日常会話の標準語離れはこのころを契機としているようだ。

ところで、音声の面での標準化は文字よりも遅れていた。近代言語学は音声を言語の根本としているから、当時の言語学者の中には発音やアクセントについてこそ標準語を確立したいと考えた者もいたようだが、明治期においてはそこまではとても進まなかったようだ。

そこへ出てくるのがラジオ放送である。英語でもアナウンサーの中立的な口調を規範として指導する向きがあるように、マスメディアで話される言葉は標準語としての権威をもちうる。(ちなみに、米国のアナウンサーはカナダ人が多いという話を大学時代にマンキューソという英語教師に聞いたことがある。)NHKのラジオアナウンサー採用条件にも、「標準語を正確に話し得る者」という条件を課していた。このときの採用方針は東京出身両親をもつ東京山手育ちの人間だったのだが、そのような条件を満たす者はおらず関東出身者にまで枠が広げられたらしい。

アナウンサーの要請には、土岐善麿・神保格の2名が講師として招聘された。2人とも標準語を話すことにかけては自信があったものの、アクセントの置きかたひとつにも意見の相違を見たという。神保格は神保町に名前を残す幕臣の後裔であり、国語問題の国会審議で標準語とは何かと問われ「私がいま喋っているこのことば、これが標準語です」と答えるほどの自信家だったが、その発音は子音が弱く母音の強い西日本系であったらしい。

その後レコードの普及や戦中・戦後の影響、筆者によるまとめ、などがつづく。古本屋で暇つぶしのために購入した本だったが、思わぬ拾いものだった。

2004/10/24
共通Open/Saveダイアログボックスを拡張する

GUIの泣き所のひとつにOpen/Saveダイアログボックスがある。Mac OSでは抜本的な改良が何度か噂されたが、結局いまでも起源とあまり変わっていない。かわりにサードパーティからOpen/Saveダイアログボックスの使い勝手をよくするためのユーティリティが生まれてきた。私はといえば、Directory Assistance II(Norton Utilities for Macintosh)、Super Boomerang(Now Utilities)ときて、最終的にはDefault Folderを使っていた。

Windowsに作業環境を移行したときからダイアログボックスは頭痛の種だった。Default FolderのようなもののWindows版がほしいと思っていたのだが、似たようなダイアログボックス拡張ソフトが海外に存在していることを知った。代表的な2本をあげると、Dialog Box AssistantFolder Cache とである。

画面を見れば一目瞭然なことに、両者の機能は基本的にはダイアログボックスの中に「最近使ったフォルダー」と「最近使ったファイル」の項目を出すことだけだ。しかしこれが侮れないほど便利である。というより、これくらいの機能はWindowsが自前で備えておいてくれると嬉しい。

上にあげたソフトはどちらもシェアウェア(25ドル)で私は前者を選択した(先に発見したのと、日本語版があったので)。この記事を書くために調べてみるとDialog Box Assistantの前バージョン(フリーウェア)がアッ!とガッテンからダウンロードできるので、こちらを試してみられるとよいだろう。

2004/10/8
漢文を読む

高校で学んだ漢文で不満に思っていたのは、系統的な文法を教わらない点だった。たしかに高校の学習では訓読ができて意味がとれればいいのだから、頻出の句法だけ学べばそれでよいのだろう。しかし私はもう少し深く漢文が理解したかった。魚返善雄『漢文入門』(現代教養文庫、1966年)は本当に基礎的なところからはじめているわりに、高校教科書では得られなかった文法の知識が習得できるのが嬉しい。

魚返(1966)は、漢文の起源を甲骨文字の文字列に求め、その成立から暗号ないし符丁のようなものだったと述べている。つまり漢文は成立当初から文語体であって口語体(中国語では白話文という)ではない。文法体系も異なっていて、たとえば「孟孫問孝於我」というSVO to 人のような構文は漢文独特なのだそうだ。主題語と説明語、連結語、表情語――といった分類は、同書ではじめて目にした。ちなみに漢文の品詞体系はかなり単純で、むかしは「実詞」と「虚詞」しかなかったという。

章ごとのエピソードの中でも飛び抜けて面白かったのは、江戸時代の岡島冠山という人物の紹介である。長崎の唐人屋敷で通訳をしていた岡島は中国語に秀で、荻生徂徠に中国語を教えるなどした。彼は中国の軍記物を翻訳していたのだが、逆に『太平記』を漢訳して中国に広めようとしていたという。この発想に感心する。

不満を挙げるとすれば、「暗号」「符丁」など文語文としての漢文の役割を強調しているため、音声の側面にはほとんど触れられていないことだ。そのため漢詩を鑑賞することはできない。もっとも、平仄の細かい規則を200ページの小著に収めることは不可能だろうから、割り切りとしてはよいのだろう。