2003/7/27
いくつかの本

生協に注文していたまま受けとるのを忘れていた書籍、古本屋で買った書籍について何冊か。

上田文世『笑わせて笑わせて桂枝雀』(2003年、淡交社)を読むと、「万事気嫌よく」するために枝雀がどれほどの心労を重ねていたかがよくわかる。それはともかく、1500円なのに組版と装丁がしっかりしている。本文にヒラギノ明朝W3をそのまま使わず、仮名書体として游築5号W3をもってきているのがよい。見返しの部分に結び柏があしらってあるのもオシャレだ。

府川さんの一連の本も、はじめて読むに至った。『真性活字中毒者読本』『たて・ヨコ組版自由自在』の2冊を購入。さらに、絶版になっている『組版原論』を図書館で借りてきてもらった。組版原論はなぜか駒場の文化人類学教室に置いてあり、はじめての貸し出しとなった。『読本』で思ったのは、私のモトヤ好きはまんざらピントはずれでもないということと、写研の秀英明朝体(SHM)は格好いいということだった。写研書体のアウトライン配布をやっているところは何社か出てきて、写研フォントメール便クルーなどがある。前者のほうが安いのだが、SHMは後者にしかない。『自由自在』では、実際の組版規則の部分が参考になった。ただ、「見出しを段落版面の天に揃えながら、段落最初の1行目にインデンションを行なうのは論外である」という部分がよく理解できなかった。『組版原論』は単著のためか、『自由自在』よりも過激でおもしろい。

『読本』と『自由自在』とは同じ本文書体なのだが、私の目には『自由自在』のほうが細く見える。本当のところはわからないが、『自由自在』の紙は白色度が高くて光沢のあるカタログ紙のような材質で、それゆえに活字が細く見えている気がする。ヒラギノ明朝W3は奥村先生のLaTeX入門書を見たときに太いと思ったのだが、『自由自在』の例として出ているものはさほど太く見えない。最終出力を想定して組版を設計せよというから、本来なら紙やインク・製本についても勉強しなくてはいけないのだろう。

箱入りの古い高木貞治『解析概論』や坪井忠二『数理のめがね』、加藤敏夫『位相解析』などは、電算写植以前の数式組版が見たかったから購入してみたもの。pLaTeXと最も雰囲気が似ているのは1968年発行の『数理のめがね』なので、比較すると学ぶべき点が多い。

最近よく思うのは、Computer Modernの中で最もうまく作られているのは小文字の数式イタリックだという点だ。テキストイタリックより少し幅広に作られている。しかし同じ小文字でもギリシャ文字のイタリックは失敗だと思う。何度か改訂されているが、はっきりいって奇妙で、同じようなギリシャ語書体を見たことがない。妄想するにComputer Modernと雰囲気を合わせるために直線的なデザインを試みたのだろうが、この点が不要だったのではないかと私は考えている。

明朝体の読みやすさは漢字と仮名とがまったく異なる書風をもっている点にあると府川さんが上のどれかでお書きになっていたが、ギリシャ文字とラテン文字の関係もこれと似たようなもので、デザインの統一性を目指してギリシャ文字を埋没させるよりは判然と区別できるようにしたほうがよかったのではなかったかと思う。オーソドックスなギリシャ文字の使用は、これを十分に満たしていた。幸いなことにTeX用のわりといいギリシャ文字書体というのは出ているから、これをうまく利用すればよい――このことは数年来の宿題にしているのだが、まだできていない。

2003/7/25
TrueTypeフォントのヒントと妥協的組版

下にあるモトヤシーダ1が埋め込まれたPDFファイルをプリンターに出力してみて、漢字の出力に違和感をもった。多くの文字で横画の太さがそろっていない。PostScript書体だとこんなことにはならないから、TrueTypeフォントのヒントづけの問題なのだろう。TrueTypeのヒントづけは一種のプログラミング言語で難しいという話を耳にしていたが、ヒントの有無が関係してくるのは画面上くらいで、印刷するときには影響がないと誤解していた。600dpiはまだまだ低解像度で、ヒントがモノをいう。私だったら、この出力をそのまま他人に配布することには躊躇してしまう。

ほかのTrueType書体を埋め込んだ場合にはどうなるのか。残念ながら、MS明朝はおろかモトヤ明朝でもヒラギノ明朝でも一部の漢字の横画の太さがそろわない。たとえば「書」という文字の「日」の真ん中の横線だけが太くなってしまったりする。(ただし、どの文字で変になるかは書体や寸法によって異なるようだ。)一方、Acrobatに付属する小塚明朝Rでは、そのような問題は発生しない。残念ながらモトヤにはOpenType書体がない。モトヤ明朝の横組での読みやすさに感心していただけに、口惜しい。

そこで妥協をはかり、モトヤ明朝の仮名だけを埋め込んで使用することとする。仮名の書風は楷書に近く曲線が多いので、ヒントの問題はあまり顕在化しない。漢字部分を埋め込むなら小塚明朝を2%ほど縮小して合わせるとベストだと思うのだが、Acrobatに付属する書体を埋め込むとなると容量が無駄に大きくなる。仮名だけの埋め込みなら、Acrobatで最適化を施せば50〜60KBほどの容量増加で抑えられる。

PDFファイルを開いた場合、Acrobat 5以上なら漢字部分は小塚で、4以下ならMS明朝または平成明朝で表示される。私はまだ4を常用しているが、世間的には5が標準となっている。また、PSプリンターへの出力は「2バイトフォントのダウンロード」をチェックするか否かで変わってきて、チェックしなければ仮名もリュウミンで出力される。

pLaTeXで混植を実現する方法はmakejvfの説明書を見ればわかる。実際に出力させてみて確認するに、モトヤオリジナルの明るさは出ないがリュウミンやヒラギノよりはよいかな、というていどの出力となった。まあ、このあたりが落としどころだろう。

追記030725。小塚明朝をそのまま使うと、漢字の大きさが気になる。基本の「基」の字100ポイントを例にとると、文字の高さはリュウミンL-KLが30.6mm、モトヤ明朝2が30.8mm、対して小塚明朝Rは31.4mmある。6画目の横画も、モトヤの32mmに対して小塚は33mm。2%ほど縮小するのが望ましいのだが……。

2003/7/24
…―の入ったLaTeX文書から作成したPDFファイルにTrueTypeフォントを埋め込む

pLaTeXの文書をPDFファイルにするとき、TrueTypeフォントが埋め込めないか検討する。いずれもWindows版の話だ。(1)dvipdfmxで埋め込むと「…」や「―」が文字化けする。(2)dvipskの設定をSJISにしておいて、rmlのところでリュウミンのかわりにTrueTypeフォントのPostScript名を記しておき、Distillerにかけたらうまくいくのではないかと想像していたのだが、これが実は×だった。Ryuminのときにはフォントが存在しない旨の警告があるだけなのに、MS明朝などのTrueType書体のさいにはCourierで置換されてしまう。(3)裏技としてdvioutからDistillerプリンターを使う手はあるが、これだとEPSの図版がビットマップのままになる。――以上のような認識で、これまでは不可能と考えていた。

ところが最近、うまくいきそうな方法を見つけた。ただしAcrobatを併用するので、万人向けではない。基本的には(1)の路線でdvipdfmxを使うのだが、ポイントはTrueTypeフォントを指定するが埋め込まないようにしておくことだ。このためには、フォント名の前に「!」記号を書いておく。たとえば明朝体の部分にモトヤシーダ1を埋め込みたければ、cid-x.mapの166行目付近を以下のようにする。(オリジナル部分はコメントアウトした。1にしているのはモトヤシーダがttcフォントで、等幅のttf部分を使うため。)

%rml H :0:msmincho
rml H :1:!MTXc1kp

そうして出来上がったPDFファイルをAcrobatで開き、〈ツール〉-〈Touch Up〉-〈テキストの属性〉を選び、「埋め込み」にチェックを入れる。このとき文字化けするかもしれぬとの警告を得ることがあるが、無視してOKする。こうしてフォントを埋め込んだ場合には、「…」や「―」も文字化けしない。また、先に埋め込んでおいてからTouch Upツールを使って「…」や「―」の部分のフォントを指定し直すと、文字化けが解消される。しかし、ひとつひとつ指定する手間を考えると上の方法のほうがよさそうだ。


2003/7/17
生徒指導論雑感

今学期に履修した生徒指導論の講義は、冗長ながら聞くべき箇所がいくつかあり、なかなかよいものだった。個人的に関心のあった話題2点を以下にまとめる。

ひとつは、大正新教育の実践事例である野村芳兵衛の生活訓練だ。大正時代には自由教育がもてはやされ、野村も当初はその流れにあった。しかし実際に放任してみると、子供は粗暴にしかならない。ここにおいて野村は自由主義教育の欺瞞に気がつき、子供は大人が教育しなくては育たないことを痛感する。そして、その反省の上にたった真の自由主義教育を模索していく。

ここで野村がとった方針は全生活時間を教育に割くものだから、とてもではないが現代の教員が真似できるようなものではない。それでも一応書いておくと、午前中は授業を行なう。これは生徒ひとりひとりの水準にかなりカスタマイズされたもので、学年の枠はほとんど無視されている。それどころか、教科の枠さえはずされている。いっぽう午後は遊びの時間で、これは生徒の遊びを横で見ているだけのものだ。ここでの狙いは、遊びの中で自然や人間との関係の取りかたを子供たちに身につけさせよう、というものだ。

私が東京の子供たちを見ていてほんとうに可哀相だと思うのは、彼らに生の体験が絶望的に不足している点だ。私とて大阪郊外の育ちだからさほど自然に恵まれていたわけではないものの、虫取りをしたり池でザリガニを釣ったり近所の雑木林で秘密基地を作ったり――というていどのことはしていた。怪我もした。ところが今や大人たちが子供の怪我を恐れて管理を強固にするあまり、かえって子供たちは脆弱になっているように見受けられる。

では、上で述べた生の体験が学校で実現できるかというと、まず無理だ。下の項でも似たような話題に触れたとおり、正規の課程として導入した時点で内容が変質してしまう。だからできるのは周辺地域社会ということになるが、どんなものだろう。私が数少ない希望をもっているのはリタイアした団塊世代で、こうした人々が子供と関われるような地域的とりくみを、行政主体であってもかまわないから作ったほうがよい。彼らに子供に還ってもらって、かつての子供社会に存在した規則や遊びを伝承してもらう。団塊世代にとっては孫代わりにもなろう。

もうひとつは、いまの日本は先進国の中でも子供を大人にすることに特に失敗している社会だ、という教官の指摘である。長崎での幼児殺害の容疑者が12歳だったことで再び少年法をめぐる議論がなされているようだが、保守派が唱える少年法の厳罰化は責任の所在を個人に極小化し、親や周辺地域の責任を薄める結果につながることに保守派自身が気がついているのだろうか、という。子供の問題を大人の問題としてとらえることなしに子供の管理を強化するだけでは、「喧嘩が減ってイジメが増える」という80年代以降の流れは変化しないだろう。

前近代社会ではほぼ必ず見られる成年儀礼は、成年への移行が難しいものであることを人々が自覚していたことの反映である。では、むかしの人々はどのようにして子供を大人に移行させたか。成年儀礼といっても長くて数カ月だから、そのあいだに子供が特別に変化するわけではない。しかし儀礼を通過しさえすれば、大人はたとえ青二才の者であってもその者に対して大人扱いをし、権限と責任を与える。未熟な者を未熟だからといって子供扱いするのでは、子供はいつまでも子供のままでしかいられない。だから、多少の無理は承知の上で大人扱いしなければならない。いまの日本では、パラサイト云々と騒いでいる大人自身が、実は子供たちを大人扱いする覚悟ができていないのだ。

高校時分に興味があってドイツ社会の関連図書を読んでいるとき、ドイツでは18歳になったら大学が近くにあっても子供は家を出てひとり暮らしをはじめる、という記述をどこかで読んだ。えらく贅沢なことをするものだと当時は感じていたのだが、これも子供の自立を促すための慣習なのだろう。

2003/7/14
教育工学への誤解

教育工学と聞けば、そこで研究されている内容としてどのようなものを思い浮かべるだろうか。私が想像していたのは、むかし流行したCAI学習のような教育にコンピューターを持ち込むもので、否定的にとらえていた。ところが先学期に「教育工学」の講義を履修して、先の空想が完全に誤りであることを第1回目から認識させられた。

現実の定義は、たとえば「学習の過程と資源についての設計、開発、運用、管理、ならびに評価に関する理論と実践」で、授業研究やら教材開発やら課程編制やら職業訓練やら人材育成やら、なんとも幅広い領域を扱うものらしい。そのときの教官も現在の初等・中等教育で行なわれている「IT」授業に関しては否定的で、参考文献としてハーリー『コンピュータが子どもの心を変える』(1999年、大修館書店)が挙げられていた。

同書が書かれたのはビル・ゲイツが未来を語ったりゴア副大統領が情報スーパーハイウェイ構想を掲げたり、米国でIT旋風が巻き起こっていた時期のものだ。筆者は、初等・中等教育現場に闇雲にコンピューターを持ち込むことに対して警鐘を鳴らしている。

批判の第一は、ソフトウェアのマルチメディア教材にろくなものはないという点だ。派手な絵や音楽、オマケのゲームなどに気をとられ、生徒は肝心の学習内容を吸収しない。第二に、よくできたソフトウェアであっても人間が教える以上の効果はもたらさないという点だ。この点は、仮に計算機関係の予算が追加として増額されるのならば問題とはならないだろう。しかし現実には、計算機予算の増額は図書費の減額で賄われている。5年でダメになる計算機と10年は軽くもつ図書と、どちらを購入すべきだろうか。

ただし、マルチメディアの教材すべてがダメだというのではない。理科でいえば自然や動くもの、数学では立体関係など黒板に記しにくく生徒も思い浮かべにくい事柄に関しては、ビデオは役に立つ。社会の「はたらくおじさん」だっていいだろう。私自身、理科の時間に見たNHKスペシャル『人体』のビデオはよく憶えている。ただし、テレビ番組になるほどの予算を割かなければいい教材はできないだろう。

私は初等教育の正規課程に計算機を持ち込むことには反対だし、中等教育においても慎重な立場でいる。私だって小学生のころから使ってきたのだからワープロで作文する効用くらいは理解しているが、それが多数の生徒にあてはまるかどうかの自信はもてない。

おまけに、いま現実に日本でとられている初等・中等教育の計算機利用は、上の米国での事例と大差ない。最も発展的な部類ですらホームページを使っての調べ学習で、これは百科事典がホームページに変わっただけだ。(ホームページは書籍以上に玉石混淆だが、玉を見抜く力が生徒にはない。)また、PowerPointを使ってのプレゼン大会もある。ワープロの利用は派手さに欠けるそうで、最近は下火になっている。ワープロのアウトライン機能を使って文章の構造を考える、なんていうのはいい授業になりえるかと思ったのだが、私の妄想に過ぎなかった。

いちばんひどく、かついちばん多く見かけるのは、結局はインターネット関係の用語をプリントで暗記させるものだ。中学校では技術家庭科に計算機が入っているのだけれど、定期試験でYahoo!のアドレスを書かせたりAltキーの位置に○をつけさせたりOutlook Expressのアイコンを選ばせたりするのは、ちょっと悲しい。技術家庭科の教科書は実は主要5教科よりもずっと高度なのだが、実際に使われることはあまりないようだ。

学校の正規課程は、あくまで古典的な内容の建前で押し通すほうがいいと私は思っている。端的に言えば学校は「勉強しに行くところ」という建前だが、実際の多くの生徒の気分からすれば友達としゃべったり部活をしたりしに行くところかもしれない。しかし、「友達と遊ぶことの教育的効果」なるものが宣伝されて「50人と友達になること」などといった宿題が出るようになると、ロクなことはない。新制大学で60年代に普及した教養課程が崩壊したのは、教養を課程に取り込んだからではないか。建前としては一貫して専門で、そこから溢れ出てしまう者だけが教養を学んだほうが教育的だと思う。計算機もこれと同じで、初等・中等教育の段階ではやりたい者だけが陰でやったほうがいい。


2003/7/6
コマソンで知った歌手

前に法事で父の実家に帰省したとき東京オリンピックの記念雑誌を読んだのだが、記事よりも広告のほうが世相を反映していておもしろかった。近所の貸しビデオ屋がCD貸し出しを廃業するために割引をやっていたので、上のことを思い出して『懐かしのTV-CM大全集』(1993年、東芝EMI)を借りる。これが聴いているとなかなか楽しい。

同じ人が何作も手がけていることが多く、三木鶏郎・サトウハチロー・野坂昭如・小林亜星・いずみたくなんかの名前がちらほら目につく。それは歌手でも言えて、ダーク・ダックスとか楠トシエとか伴久美子とかペギー葉山なんかはよく出てくる。

130曲ほどのCMソングの中でも、「ネスカフェ43粒スプーンに一杯」(1962)「アスパラでやりぬこう」(1963)「ワンサカ娘(レナウンの唄)」(1964)の躍動感あふれる声には圧倒されるものがある。調べてみると、これらを歌っているのは弘田三枝子という人だそうだ。検索して「魅惑のモナムール」「Hit Kit MICO!」「スターまるかじりインタビュー」「拝啓元気で〜す」を見るに、これはむかし鶴瓶・上岡がパペポTVの中で「人形の家」の前まではすごくよかった、と言っていた弘田三枝子ではないか。

とにかく歌のうまさに驚かされる。「子供ぢゃないの」(1961)なんて、とてもではないが14歳のデビュー曲とは思えない。「悲しきハート」(1963)も実にいい。このころは渡来曲を訳して歌うのが流行していたそうで、中尾ミエとか伊東ゆかりなども歌っている。しかし『青春歌年鑑』を聴くかぎりでは、歌唱力において弘田三枝子は群を抜いている。すげぃよぼのぼのちゃん。

問題は入手方法で、『Mico is Pops Queen』(1998)は最近の再収録曲で、買ってはみたものの声の力強さがオリジナルに少し……かなり劣る。ところがオリジナル版を高価なボックス版以外で入手することは難しい。コロムビアの音得盤には移籍後の楽曲しかなく、あまり見るべきものはない。(03/07/13訂正。これは誤り。いい歌がいくつかある。)大枚をはたいてたまるかという向きは、蔦谷にでも行って『青春歌年鑑』を借りてこよう。

追記040321。ボックス版はEMI時代の楽曲が取り直しされている。オリジナルの楽曲は「ミコちゃんのヒット・キット・パレード」に収録されている。いまは廃盤だが、ときどき競りに出る。

パペポで思い出したおまけ。上岡龍太郎が歌い笑福亭鶴瓶がときおり「リーポロポロポロ……」と真似した曲の一部分の歌詞を以下に記す。La Malagueñaという曲で、歌詞の意味は私にはまったくわからない。 Musica MaestroからダウンロードできるMP3ファイルの2分17秒付近からはじまる部分がそれだ。

Si por pobre me desprecias
yo te concedo razón...
yo te consedo razón...
si por pobre me desprecias.
Yo no te ofresco mi corazón
te ofresco mi corazón...
te ofresco mi corazón...
a cambio de mi pobreza.

2003/7/6
紙の違い

世のプリンター使用者をレーザー派とインクジェット派とに大別するとすれば、私は断然レーザー派に属する。うちのインキにゃ色がない、隣のインキにゃ色がある――と白黒を嘆くこともあるが、天然色を捨てても滲みのない文字を選びたい。ところが先日、キヤノンPixus 850iから「プロフォト用紙」と呼ばれる専用紙にデジカメの画像を出力させたところ、思いのほかきれいな出力が得られて驚いた。これなら写真のかわりになるんじゃないかという気になる。

ヨドバシカメラから広告紙が送られてきたので眺めていると、「学校でも大活躍のプリンタ WorkCentre B900N」という記事にぶつかった。レーザープリンターと比較して消耗品価格が安いので公立小学校に都合がよい、というような内容がある。それで連想したのが紙質だ。私が小さいときには学校の紙は更紙か、よくて中質紙だった。インクジェットプリンターだと悲惨なほど滲みそうだが、近ごろでは上質紙が使えるのだろうか。

2003/7/3
メール不達のお知らせ

数日来、nabesin@mercury.ne.jpへのメールが届かないようになっているそうです。mercuryの不達事故は2度目なので、もはや見限ることにしました。メールアドレスをna@10days.orgに変更します。メールを送られたのに送信不能で返ってきた方、申しわけありません。

2003/7/3
直接入力専用アドレスバー希望

Internet Explorerを使っていて癪にさわるのは、いま日本語入力モードになっていることに気がつかないままアドレスを入力してしまうことだ。親指シフト入力だから半角英数変換するわけにもいかず、もういちど入力し直している。

IE用のツールバーがGoogleをはじめさまざまなところから出ている。そんな中でぜひともほしいのが機能縮小アドレスバーだ。検索機能などをもたない単なるアドレスバーで、その領域をクリックすると日本語入力が自動的にオフになるようなもの。ついでに、その領域ではctrl+Hで前文字削除が可能なもの。