2001/12/30
シナ語と倭語

高島俊男『漢字と日本人』(文春新書、2001年)を読む。短い原稿を「ふくらまして」本にしたそうで、なるほど内容量は少ない。著者の基本的な主張は、漢字は日本語の書記には向いていないが、概念語のほとんどを漢語によっている現在では分離もできず、そのままやりくりするよりない、というものだ。まあ、そんなところなのだろう。言語の滅亡には3世代あれば十分だから、日本語など改良の前に滅びることだってありうる。

細かいことを書き連ねておく。著者は中国語という表現よりもシナ語のほうが適切だと述べている。実際に、学術用語としては「シナ語」を使う。が、「中国は日本とちがって多種族多言語国家だから、多数の言語の総称ということになる。単一の言語をさす呼称としてはおかしい」という説明はどうかと思う。この理屈でいうと、「フランス語」も変になるし、大日本帝国期には「日本語」だっておかしくなる。(「日本」という語は、その生まれからして国号であり地名や種族名ではないのだから。かわりに使うのは倭語かな。)多種族多言語といっても、中国のばあい漢族が人口と権力とをほぼ独占しているのだから、一般的に漢語を中国語というのは問題ないのではなかろうか。

筆者が名文として称賛するのは新井白石の文章で、「文章にとって何よりだいじ」な「気品、格調」が白石の文章には備わっているそうだ。実際、私もそう思う。いっぽうで筆者の文章はどちらかというと、「情緒を牛のよだれのごとくメリもハリもなくだらだらと書きつらねたもの」に近い。このギャップは、なかなか興味深いことだ。

2001/12/29
SuicaとIOカード

テレホンカードなどのプリペイドカードといえば使い捨てが相場だったが、こんどJR東日本が出したSuicaカードはカードに入金することができる。これによって、同社は一時的な収入増となるかもしれない。

プリペイドカードは、消費者が前もって購入している額だけ企業に現金が入ることになる。言ってみれば、当座預金のようなものだ。もしも単なる使い捨てカードなら、カードを使い切ったあとか、あるいは使い切る直前に新しいカードを購入するから、1枚あたりの預金額は大したことがない。しかし入金のできるSuicaカードなら、使い捨て型にくらべて残額の多い段階で追加入金するだろう。平均残り500円で追加入金すると考えると、500円×カード枚数分の金額がJR東日本に「常にたまっている」計算になる。わりと大きい金額になるのではないだろうか。

従来のIOカード(JR東日本のプリペイドカード)で使いにくかった点は、残金が130円を切ったときの手間だ。IOカードは、自動改札に入る段階で130円が差し引かれる。そのため、カード残金が130円未満のときには改札を抜けることができず、券売機でしか使えなくなる。切れかけのカードと新品のカードとを2枚連続で入れれば、不足分を新しいカードから落としてくれるようなしくみになっていると便利だし、実際そのような改札機は私鉄にはある。Suicaカードでも上記の不便さは解消されるが、みすみすJR東日本に得をさせているようで釈然としない気分になっている。

2001/12/28
トルコ語

御茶ノ水まで出かける用事があって、暇つぶしに田中克彦『国家語をこえて――国際化のなかの日本語』(ちくま学芸文庫、1993年、元1989年)を読む。書名は格好いいが、内容は単なる雑文だ。それでも、何点かおもしろい部分はあった。

まずは国際語の分類である。たとえば国際語としての英語を学ぶとき、その目的は多くの場合に実利的なものである。いっぽう、日本が戦前にアジア各方面に日本語を広めようとしたときには、言語としての日本語のみならず各種の作法や文化をも含んでいた。このような後者の国際語を、田中は「宗主国語」と名付けている。

あとは雑多な知識。文章全体の翻訳よりも単語の翻訳のほうがよほど難しいこと、特に音にかかわる翻訳は困難であること。格変化のある屈折語を最上位と見なしていた西洋人が中国語を分析する場合に、その単純な言語構造で偉大な文明を構築したことに対して解釈に悩んでいたこと。

個人的なヒットは、トルコ語の例文だった。日本語・韓国語・トルコ語は語順がよく似ていると言われていて、韓国語については了解していたのだが、トルコ語の例文を見たのははじめてだった。たしかに似ている。

2001/12/27
パソコンに泣く

年末にかけて、PC関係の問題を解決せよとの下命を賜わることが何件かあった。そのうちの1つが、パソコンにCD-RWドライブを接続してほしいというものだった。わりと簡単そうに思えて快諾したのだが、現場に行ってその思いは裏切られ、いまだ接続できずにいる。

まずパソコンはDell PowerEdge 2400/667(Windows 2000 Server)で、SCSI CD-ROMを内蔵しているくせに外にSCSIポートがない。取り付けようとするCD-RWドライブはLogitec LCW-R1210DVで、Ultra SCSIのもの。これを、USB-SCSI変換ケーブルであるLogitec LUB-CSを経由して接続したいらしい。見るからに危なそうで、嫌な予感がする。PCIバスが6本もあるんだからSCSIカードをもう1本とりつけるか、5インチベイが3つもあるのだからCD-RWドライブを内蔵するほうが、ずっと安全そうである。

しばらくのあいだ、USBポートを認識しない問題に悩む。これはBIOSの設定でDisabledになっていたためだ。気を取りなおしてBIOSの設定を修正し、ドライバーをインストールする……再起動……STOPエラー。CD-RWドライブを外していると、問題なく起動する。ドライバーの最新版をと思ったが、この機種はインターネットにつながっていない。捲土重来ということで、とりあえずは家に戻る。このとき室内用メガネを忘れ、現在たいへん困っている。

2001/12/26
猿と鬼

ジョン・W・ダワー『容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別』(平凡社ライブラリー、2001年、原著1986年)を読む。ダワーは、ドイツ戦にくらべて熾烈を極めた太平洋戦争を「人種」の観点から分析している。

米国は日本人全体を「黄色い猿」と見なし、根絶の対象とした。敵は「ナチスと日本」であって、「ドイツと日本」ではない。「良きドイツ人」は存在しても、「良き日本人」は存在しないのだ。その一方で、社会進化論華やかりしころに西欧文明を吸収した日本は、米英人を劣等種族と見なすことができず、そこで持ち出したのが「鬼」というイメージだった。

国民心理操作においては両国とも、自国の実状を棚に上げて相手国を非難する。「プロパガンダは、敵の残虐性を捏造するという意味においてではなく、それを相手方だけに特有のものとして描くという意味においてまやかしである」(p.49)。私がこの本から学んだ一番のものは、この部分だろう。

2001/12/25
周辺機器の勝手連

Macintoshでよいと思っている点の中に、使い手たちのあいだで生じている連帯感がある。私自身、正視に耐えないので横向けに置いてあるPowerMac G4を手直しするときには、いくつものWebサイトを参考にさせていただいた。また、どこかのサイトで困っていらっしゃることで、こちらが解決策を知っている問題であれば、メールをすることにしている。

この連帯感は、使い手だけでなく周辺機器業者をも巻き込む。たとえば、iMacのリセットスイッチが押しにくいとわかれば、それを解決するプラスチックボタンが出まわる。PowerBookやPowerMacにも、その機種専用の部品が製造・販売されている。純正以外に専用の部品がこうも出現するのは、パソコンではアップル製品くらいだ。おそらく、これらの製品の開発者も熱心な使い手のひとりなのだろう。

そうした周辺機器のひとつとして、PowerBook G4/iBookのキーボードに傾斜をつける「固くシテ上げる」を「M3-note」経由で見つけた。私が使っているノートPCにも、この手の製品がほしい。静冷台の購入も検討したのだが、大仰な気がして買わなかった。「固くシテ上げる」なら、気軽に脱着できて便利そうだ。

2001/12/24
世代の感覚

「○×世代」という表現をするときには、その世代内の同質性が語られる。「日本人はどうして年齢にこだわるのですか?」(日本事情)によれば、戦後生まれには少なくとも7種類の世代があるようだ。同質性にからめて「世代」を呼ぶのは団塊の世代が最初だったと、森毅が書いていたかもしれない。「全共闘世代は今日も行く――半生の自分史」を読みつつ……。

2001/12/23
デジタルカメラに興味をもつ

写真にあまり興味がないので、カメラを持っていない。ただ、メモとして絵が使えると便利だなと思うことはある。たとえば複雑に梱包された物を取り出すときには、ひょっとして再び収納できるかどうか不安になることがある。そのような場合、梱包されたようすを写真にとっておけばよい。通りを歩いているときにも、おもしろい看板などに出会うとメモしておきたくなる。これも、カメラがあると便利だ。

以上のようなことから、デジタルカメラに興味をもつようになった。本当に何も知らない状態だったので、「岡嶋和幸のデジタルカメラ撮りたい放題!」やら「スタパ齋藤の週刊スタパトロニクスmobile」やら「BestGate」やらを覗く。例によって、よさそうなデジカメは、それなりに値が張るようだ。正月特売に期待しよう。

2001/12/22
2つの学校

遠山啓さんの学校論でよく出てくる話題に、学校は大別して「自動車学校型」と「劇場型」とに分けられるというものがある。自動車学校での教育内容の目的は明確だ。自動車免許がとれればよい。自動車免許だけでなく、医師や技術者養成のためには、この手の学校は必要不可欠である。いまひとつの劇場型は、出入り自由で入学も卒業もない。学問そのものを楽しむための学校である。遠山さんは、高校までは劇場型でいいじゃないかと主張していた。では、高等教育機関はどうなのだろう。

2001/12/21
一人勝ちの期待

黒木掲示板2に投稿されていた別所俊一郎さんの文章がおもしろい。単純に考えれば、構造改革によって自らの実質所得が向上すると人々が期待すれば、それが現時点での消費に反映して消費支出は拡大するはずである。それがしないのはなぜか。ひとつの仮説として考えられるのは、構造改革によってたとえ経済全体の所得が向上しても、富の集中(一人勝ち)のために自分自身の所得は減少してしまうと予期されれば、一般の人々の消費は減少してしまう、というもの。そういう発想もありよねえ、と感心する。


2001/12/20
セグウェイ夢想

電気スクーターのセグウェイが公開されたときには、複数のWebニースサイトが報じていた。その姿を見ながら考えたこと。

セグウェイは、個人が短距離から中距離を移動するための乗り物だ。現在それに近いのは、折り畳み式の自転車だと思う。研究室から講義棟まで、大学の構内を自転車で移動している教官もいる。数駅ぶんくらいなら、これで行けるだろう。

長距離移動には向かないかもしれない。原理的には最高で30km/hほど出るのだから、平均時速15km/hとすると国立・吉祥寺間(7駅分:直線距離12km)を48分で行くことになる。48分間変わらぬ姿勢で立ちっぱなしだと足が疲れると思うのだが、どんなものだろうか。20分ごとのストレッチが推奨されるかもしれない。また、風雨の強い日にはどうするかとか、荷物はどうやって運ぶのかとか、親子連れで大丈夫かとか、細かい心配もある。

歩くのはわりと好きで、国立・立川間(1駅分:直線距離3km)くらいなら歩く。ただ、読み出した本がやめられないときには本を読みながら歩くことになり、けっこう危ない思いをする。たとえば自転車とぶつかりそうになることがある。そのようなときに助かっているのは、とっさのときに横方向に身を引くことができるからだ。セグウェイでこれをしようにも、車輪が邪魔で難しそうだ。

2001/12/19
アドビのアカデミック

アドビ製品といえば高額であることが通念だと思っていたのだが、ことアカデミック版にかぎって言えば、かなり安くなっている。かつて私がAcrobat 4.0の通常版を買ったときには、アカデミック版も2万円以上していて価格差が小さかった。それが現在では9800円となっている。IllustratorもInDesignも3万円未満で買える。

2001/12/18
嗜好の変遷/さらに脱線

どうせ誰もが自覚することなのだろうが年を重ねていくと好みが変わっていく。このごろとてもおいしいと感じる食物が出てきた。ひとつは栗、いまひとつはゴボウだ。どちらももともと嫌いなほうではない。わりと好きな食べ物だったが、ここまでおいしいとは感じていなかった。

邦楽に関して井上陽水への傾倒はつづいていて、ライブのDVDが出ると知って初めてDVD再生機がほしくなったが、好きだと思える楽曲は変わってきている。最近は、「鍵の数」とか「長い坂の絵のフレーム」とか、シンプルなものが好きだ。また、演歌に対する嫌悪感がなくなったのが大きい。美空ひばりの「愛燦々」(歌詞+MIDIマンドリン演奏)なんかは、聞いて感動するまでになっている。(Entertainment GooのMusic項では、好きな歌手を入力して検索すると、その歌手の音楽ファイルがダウンロードできるサイトが紹介される。)

尊敬する4名として、つねづね井上陽水森毅桂枝雀桑田真澄の名前を挙げる。といっても桂枝雀や桑田真澄は、自らも修練してそうあろうという努力の対象になるのだが、井上陽水や森毅となると、幾何十になってもああはなれないという溜息交じりの憧憬の対象になる。中国の分類を借りれば、前者は「聖」なのに対し、後者は「仙」だ。桑田真澄は「聖」の姿勢を貫いている。桂枝雀は、「聖」から「仙」に転身しようとしてなりきれなかった。

2001/12/17
「止まれ」と「とまれ」

国分寺市のKさんの家から帰る途中で、付近の住宅街の街路にやたらと道路標識が記されているのに気がついた。おもしろいことに、「止まれ」としている道路もあれば、「とまれ」としている道路もある。何か規則性があるのかもしれないと思ってウロウロしてみたが、見つけられなかった。「トマレ」とカタカナで書くほうが楽なはずだが、カタカナ表記はなかった。

2001/12/16
星が高い

落語の冬の演出に、「星が高い」という表現がある。(「六代目十八番」の「尻餅」参照。)これはいったいどういうことだろう。月の南中高度は夏よりも冬のほうが高いということはわかる。しかし実際に、星も高い位置に見えるのだろうか。あるいは、冬は空気が澄んでいるから星が遠く見えるのか。

2001/12/15
白文字の困難

もう長いことエディターにWZ Editor 4.0を使っている。ほとんど惰性に近い。時間をかけて設定したキーバインドが惜しいとか、親指ひゅんQの変換が遅くないといった、あまり積極的でない理由で使用している。上に書いたことはどちらも私の特殊事情だから、他人に勧めたいとも思わない。

しかし、積極的に評価している機能が1点ある。それは印刷まわりだ。WZ Editorの印刷機能ですぐれているのは、スタイル編集が細かく行なえる点だ。40文字×60行とか、35文字×40行とか、用途に応じた印刷スタイルが保存できる。さらに、簡単な「見出し」設定でHTMLのタグとスタイルに似たことができる点もよい。たとえば、行頭が「//ii」になっている行を、このWebページの見出しのスタイルのようにして出力することができる。数式の入らない報告書類は、WZ Editorでテキストファイルを印刷して提出している。おかげで、Microsoft Wordを使用する機会がずいぶん減った。

WZ Editorの編集機能は豊富である。その中には、文字色や背景色を設定する機能もある。ある授業でプロジェクターに映し出されたパソコン画面を見ていて、「白背景に黒文字」よりも「紺(黒)背景に白文字」のほうが見やすいことを痛感した。私の視力だと、前から5列目に座っていると「白背景に黒文字」では読めない。そういえばMS-DOSで使っていたVZ Editorは「紺背景に白文字」で見やすかったなあ、などと思いだし、家に帰るなり色を設定しなおした。満足満足。

ところが、困難を発見する。印刷スタイルで設定していた見出し枠などが、白文字にすると出力されないのだ。画面が「紺背景に白文字」であっても、印刷までが黒背景で白抜きに出力されると困る。だから、印刷時には自動的に文字を黒く出力するようになっているのだろう。しかし、見出し枠はなぜか文字色で出力する仕様になっているので、画面で白文字にしていると出力できないことになる。(実際には「白く」印刷されているのだろうが、もちろん見えない。)残念ながら、設定を元に戻すことにした。

2001/12/14
新宿、原宿

大阪府枚方市という難読地名の地域で育った。周辺にも、読むのに難しい地名がいくつもある。実家からほど近いサダという地域などは、JIS漢字で書けない。たいへん由緒ある由来をもっているのだが。亡くなった祖父がむかし枚方に来たとき、「私市」という駅の看板を見て、自らの目が悪くなったと落胆したことがある。「私市」が「きさいち」と書いてあるようにしか見えないと言うのだ。実際、「私市」は「きさいち」と読む。

そういうわけで、地名にはわりと興味がある。東京都心や山手の地名には、心引かれるものが多い。錦糸町とか小伝馬町とか御徒町とか人形町とか、ひじょうによい響きだ。神楽坂とか山王坂とか、坂の名前もよい。それにくらべると、国立はどうもいけない。住所区分が北・中・東・西と、まったく素っ気ない。

前から、「新宿」「原宿」の地名の由来が気になっていた。代々木を挟んで2駅なので、かなり近い。むかし原宿という甲州街道の宿場があって、そのあと新宿という宿場をつくったのだろうと勝手に想像していた。想像しただけでなく、数名にしゃべってしまった。大嘘である。両者はまったく関係なかったのだ。進んで訂正していきたい。

まず「新宿」は、「内藤新宿」の略だった。甲州街道の日本橋から高井戸までには距離があったので、中間地点として設置された。宿場の一部が内藤家の敷地内だったので、内藤新宿と呼ばれたそうだ。裏街道の青梅街道も近くにあり、たいそう栄えたらしい。風紀の乱れにより廃止されたこともあったという。(「新宿区という名の歴史」などを参照。)いっぽう「原宿」の由来はもっと古い。「原宿由来考」によれば、江戸開幕の50年も前に遡るという。しかし、宿場町ではあったようだ。

2001/12/13
\textbfの扱い

pLaTeX 2eでは、初期設定の和文ファミリーにはmc(明朝)とgt(ゴシック)が記載されている。ところが、mc内であっても\textbf命令でbold faceにするとゴシック体で出力される。この処理について、首尾一貫していないと考える人は少なくないし、実際そうだろう。実践家の中には、\textbf命令では太明朝で出すように改められている方もいらっしゃる。

ただし私などは実行においてあまり原理的でないので、世間でゴシックが太字と見なされている以上(たとえば役所の文書を見よ。個人的に思いだすのは学校注射の申込書だ)、\textbfをゴシックで出すのは巧妙だと思う。pLaTeXばかりでなく、Internet Explorerでも<B><STRONG>なんかはゴシックで出力してくれると嬉しいのだが。

また、漫画の吹き出しで使われている漢字ゴシック+仮名太明朝という組み合わせも、\textbf指定に向いているのではないか。明朝体の漢字は機械的なのに仮名は楷書みたいで、両者の造りはだいぶ異なる。だから、漢字部分だけをゴシックにするのも「あり」なのだろう。『遠山啓著作集』の太字部分はそうなっていて、わりとよかった。

2001/12/12
JR経由

乗車券と新幹線特急券を買った。乗車券には学割を利用している。このとき学割券を窓口で突き返されないために、あらかじめ券に発着駅を記載しておく必要がある。発駅は国立でよいし着駅は京都と書けばすむのだが、「経由」欄に何と書けばよいのかわからない。いちど中央線で東京駅まで出てから新幹線に乗るのだから――と判断し、「東京」と書いておいた。

受けとった切符のうち乗車券を見る。と、「経由:東中野・新幹線・京都」とある。東中野は総武線の駅で、平行して走っているが中央線とは線路が異なる。そこを経由するとは、どういうことなのだろう。東中野は山手線の内側でもないし、23区内の境界(西荻窪)でもないし。よくわからない。

2001/12/11
ハングの再現

いったんSMBでアクセスしたディレクトリ内のファイルを、SCSI接続のMOディスク(VFATフォーマット)に複製する――私のVineLinux/PPC 2.1.5をハングさせるのに必要な操作は、以上だ。

私は毎日、Windows機のファイルの控えをLinux機(PowerMac G4)にとっている。さらに、できた圧縮ファイルをMOにも複製する。このとき、Linuxの反応が極端に遅くなる。ハードディスクは十数秒ごとにアクセス音がし、1つのコマンドを解釈するのに数秒以上かかるようになる。実質ハングと変わらない。ところが、いちど強制再起動すると嘘のようにMOに複製できる。そのため再現ができずに、長らく悩んでいた。

今ごろになってようやく、ハングする前には必ずSMBでそのディレクトリにアクセスしていることに気がついた。試みに、強制再起動したのちに再びWindows機から当該ディレクトリにアクセスし、それでMOへのコピーを行なってみようとすると、なるほどハングする。

現時点でわかったのは再現方法だけで、原因は不明のままだ。いずれSambaを更新してみようと考えている。いまのところの対処法は、「Windows機からアクセスしたディレクトリをMOに複製するときには、その前にいったんG4を再起動する」という情けないものだ。


2001/12/10
新宿の日曜日

きのうはひさしぶりに妹と夕食を食べた。新宿ルミネの中のお寿司屋さん。

妹が履修している講義の中に藤岡信勝氏のものがあってどんなものか見ものだと思っていたら、民主主義がいかにダメなものかを語るものであったそうだ。受講者はみるみる減っていったという。文学部の人間はともかく教育学部は必修だからかわいそうだ、とのこと。また、上野千鶴子の株が上がったという。

2001/12/9
Googleと踊り字

Googleでは、「日々」など踊り字が含まれる語句が検索できないようだ。と思ったら、「佐々木」は検索できる。

2001/12/8
夢と丹波橋

私は、その日考えていたことが夢に出てくる質だ。JRサイバーステーションで空席状況を眺めつつ新幹線の予約をしなくちゃと思っていた日に見た夢は、京都駅で近鉄・丹波橋まで切符を買うところを間違えて地下鉄経由で買ってしまって後悔するというものだった。(地下鉄経由で買うと、竹田までの地下鉄料金に近鉄竹田・丹波橋間の料金が加算される。もちろん近鉄一本よりも高い。この発言が意味不明だが気になる人は「路線図」の京都駅付近を見よ。)実際には京都駅の新幹線口と近鉄の有人券売所とは目と鼻の先なので、そのような誤りを犯す可能性はゼロに近い。

ついでだから書いておくと、有人券売所は自動券売機よりもずっと早い。「京阪枚方市までお願いします」と言って1000円札を出せば、あっという間に切符とお釣りがくる。ちょうど駅の売店のような感じだ。そこで、「機械しかできないこと」と「機械でもできること」の違いを学んだ。

いま上のリンクを貼るために検索して調べていて初めて知ったことに、近鉄京阪が1968年まで丹波橋で相互乗り入れしていた点がある。詳しくは、「丹波橋――近鉄電車との相互乗り入れのなぞに迫る!!」を参照。現在は、近鉄丹波橋から京阪丹波橋まで移動するためには廊下を渡らなければならない。

2001/12/7

雨の日に外を出歩くのは好きではない。特に、ぬれたズボンの裾が足首に当たる感覚は気持ちが悪い。しかし、雨そのものは嫌いではない。外で雨が降っている音を目を閉じて聞くと、不思議と気が落ちつく。

2001/12/6
サ変動詞の用例

「10万円以上する」という「する」は本動詞だが、仮名漢字変換ソフトでは便宜的に「以上」をサ変動詞として登録するとよいのではないかとATOK 13を使いながら思った。さらに、[助数詞]-[以上(スル)]が用例登録できればよい。

2001/12/5
失われた10年に、何を失ったか

久米宏や筑紫哲也は、いつまで報道番組の顔として存在しているのだろう。森田一義はいつまで昼の顔としてテレビに出ているのだろう。テレビをまったく見なくなってから5年になるが、テレビ欄を見ると5年前の状況とあまり変わっていないことに気づき、不思議の念を覚える。

1990年代を「失われた10年」と表現する向きがある。そのような人々は、何を失ったと考えているのだろうか。資産総額なのか安全神話なのか経済成長なのか大国意識なのか定かではないが、私が失ったと感じるのは「変化」だった。変わらぬ10年。

人びとが携帯電話でメールを送信するようすを見ていると、むかしポケットベルが流行したことを思い出す。インターネット環境は量的に大きく変化したが、質的にはそれほど変わっていない。掲示板でやりとりされていることは、PC-VANやNifty-Serveや日経MIXで交わされていた話題と大きく異ならないように見える。もちろん、通信販売のチャネルが増えたなど、変わった点もある。

ただし、変わらなかったことに不満があるわけではない。社会の土台が大きくなった以上、同一の変化量では変化率が小さくなるのは当たり前のことだ――が、変化が指数的でない点に不思議を感じはする。

2001/12/4
○ら○ら/×ろ×ろ

擬態語に興味がある。中でも、ひらがな4文字の擬態語がとても好きだ。とりわけ、表題のような形式をした擬音語がおもしろい。基本的に、ア段からエ段にかけては「ら」がつづくことが多い。からから、きらきら、すらすら、めらめら、ゆらゆら……。オ段は「ろ」になることが多い。ころころ、そろそろ、とろとろ、のろのろ、ほろほろ、よろよろ……。もちろん、例外もあるが。(じろじろ、うろうろ……。)

また、ラ行のほかにカ行も似た役割を果たすことがあるみたいだ。さくさく、しくしく、すくすく、むくむく、わくわく、せかせか、ちかちか、ちくちく、ぴかぴか。

本当によくできていると感心するのは、濁点だ。するするとずるずる、さらさらとざらざら、からからとがらがら、くらくらとぐらぐら、きらきらとぎらぎら、ぱらぱらとばらばらなど、まさに濁点らしく感じないだろうか。日本語が美しいと声高に言うのは好きでないけれど、こういった例などは美しいと思う。

2001/12/3
減量計画

この2年間で6kgほど太った。木曜日に体重を量ってみると、73.2kgある。どうりでズボンはきついし、階段の上り下りで息切れするわけだ。中学時代にも72kgほどあったが、そのときと今とでは肉のつきかたが違う。当時は胸囲が100cm以上あったが、現在はそんなにない。肉は下腹についているのだ。

世にはいくら食べても太らない人がいるかと思えば、食べたら食べたぶんだけ太る人もいる。私は後者である。その点は自覚しているので、間食はとらないようにしている。しかし、運動不足からくる基礎代謝の低下によって、生活活動で消費するカロリーが食物から摂取するそれを下回るようになってしまったようだ。9月くらいから必要性を感じていたものの、ようやく減量をはじめる決意がついた。

減量は、かつて浪人しているときに試みたことがある。浪人した春に某講師から浪人太りしないようにと言われ、それもそうだなと思って当時流行していたダンベル運動をしていた。自宅から駅までや駅から予備校までは距離があったが、自転車は使わず歩いた。食事制限はしていない。15分ダンベル+80分徒歩の減量行動は効果があって、4カ月で20kgほどやせた。といっても、体重が直線的に減っていくわけではない。はじめの30日はほとんど効果がなく、75日あたりから加速がついた。

今回の減量も、同じ原則でいこうと思っている。1週間や1カ月でやせる方法を私は知らない。しかし半年あれば、ダンベル運動など身体に軽い負荷を与える運動で確実にやせられる。今回は散歩がてら、小平の如水スポーツプラザに週2回足を運び、泳いでいる。度付きレンズの存在を知って、泳ぐ気になった。幸運なことに、会費は月1500円と安い。

以上4段落にわたって見得を切ってしまったので、あとには引けない。毎週1回、木曜日の就寝前の体重を掲載することにしよう。

2001/12/2
インタビュー集を読む

B・スノードン+H・R・ヴェイン『マクロ経済学はどこまで進んだか――トップエコノミスト12人へのインタビュー』(岡地勝二訳、東洋経済新報社、2001年)は、B. Snowdon and H. R. Vane, Conversations with Leading Economists: Interpreting Modern Macroeconomics, Edward Elgar, 1999の日本語訳。部分訳とはいえ、日本語版のほうが安価だ。が、安価らしく翻訳の質は高くない。

インタビュー集は、部外者がその分野を見学するのに向いている。英米は野次馬根性が旺盛なのか一般人への啓蒙意欲が高いのか、経済学者だけでなく数学者や科学者でもこの種の本が出ている。同書のよいところは質問する側も経済学者である点だろう。おかげで日経ビジネス人文庫の『経済を見る目はこうして磨く』よりも数段上質の本になっている。もっとも、インタビューを受ける側の質も違いすぎるが。

マクロ経済学の学派なんかに興味をもっていない人のために補足をしておくと、米国の東部と中西部とのあいだで学問の傾向がちがう。政治的には、東部は民主党寄りで中西部は共和党寄り。学問的には、東部はケインズ寄りで中西部は新古典派寄り。『一般理論』、IS-LM、メニューコスト、内的成長理論、合理的期待、リアルビジネスサイクルなどのキーワードについて、各経済学者がどのように述べているかを比較するとわかりやすい。一覧表を作成してみるとナルホドと思うだろう。

付箋を貼っておいた発言の一部。

世界に数多くある極貧にあえぐ国や,発展途上国の何十億という人々の生活を救ったり,生産性や健康水準を高めたり,寿命を長くする,といったことは,西側諸国の失業率を3ポイントとか4ポイント下げることよりも,はるかに価値のあることではないでしょうか.(トービン、p.28)

私自身に関していえば,多くの経済学者がいうほど市場を均衡させる力というものの存在を信じていません.それどころか,私は,市場の失敗に対して何らかの対応策をとらなければならないのに,その能力が政府に本当にあるかどうか,という疑いをケインジアンとか,マネタリストといった多くの経済学者よりも,余計にもっているといってもいいでしょう.(フリードマン、p.72)

私は入門マクロ経済学を教えています.そのとき,私は学生に,具体的で簡単なモデルをまず勉強しなさい,と教えています.そして,アメリカのデータをそれとつきあわせて考えてごらん,といっています.学生はただ教室で教えられるだけでなく,自分たちでも考えてもらいたい,と私はたえず思っています.そこで,私はまず学生たちに訓練として小さなことから教えるようにしています.(ルーカス、p.99)

私は学生たちにケインズの『一般理論』を全部読むようにはいいませんが,学部の学生たちにはその1章から3章,そして18章はちゃんと読むように,といっていますね.それ以外のところを読むとかえって混乱してしまうようです.さらに,ときどき学生に最後の章,24章ですが「社会的哲学」(渡辺注:社会哲学だろう。は要らん)のところをもぜひ読むようにいいます.というのは,ここにケインズが人々に訴えるとてもよい言葉があります.(クラワー、p.118)

発展途上国の人々を貧しくしているのは,北アメリカやヨーロッパ,そして日本などでは,人々が近代的な経済システムを確立するために必要な知識を習得しているが,貧しい国々の人々はこの知識をどうやって吸収するのかその方法すらわからない,ということにあると思います.彼らの状態を今よりも少しでもよくするために必要なことは先進国が持っている知識をこれらの国々に少しでも多く移入することだと思います.……中略(渡辺注:中略している部分に意味の通らない箇所がある.おそらく誤訳だろう)……こういった知識の多くは,貧しい国々が先進国と貿易を開始すると真っ先に入ってくるものなのです.特に,多国籍企業がもたらす直接投資は,貧しい国が発展するための知識を導入するまたとない手段だといえるのではないでしょうか.(ローマー、p.276)

2001/12/1
窓の幅

人は、ウインドウの幅をどのていど広げて作業をしているのだろう。いまこの文章を書いているとき、テキストエディターの窓の幅は764pixelになっている。Webブラウザーを起動して窓の幅を確かめてみたところ、こちらは782pixelであった。私にとってはこのあたりの数字が最大許容範囲のようで、さらに幅を広げると落ち着かない。問題となっているのは単に横幅なのか、それとも縦横比なのか。