2001/9/30
無意識電話

電話がかかってきたので出ると、相手の声は聞こえず周囲の環境音が耳に入ってくる。何度か「もしもし」と言ってみるのだが、通じない。どうも、相手は電話をかけていることに気づいていないらしい。ポケットやカバンに入れておいた携帯電話のボタンが何かの弾みで押され、私のところへ発信されたのだろう。

このような無意識電話を受けることは、一度や二度ではない。「渡辺」だから、電話番号簿の終わりのほうに私の名前があって、それで誤発信されやすくなっているのだろうと推測する。

2001/9/29
電池のお勉強

荻窪圭「電池の話をしよう」(混沌の屋形船Direct/MacWIRE)を読んで膝を打ったことがある。電池は熱に弱いというのだ。いま使っているノートPCは充電中に電源が入っていると、必ず冷却ファンがまわる。不思議に思っていたのだが、そのファンが電池収納部の側に位置していることから、熱対策だったのかと納得した。

話は変わって、アイワのPX750というヘッドホンステレオを1996年から使いつづけている。その再生時間が短くなってきた。ガム型のニッケル水素蓄電池がへたってきたのだろうと考え、松下の「HHF-AZ01」を買う。1.2Vで1350mAhの電池容量だ。もともと付属していたアイワの「MHB-3」は1000mAhだから、容量が35%増大している。実はもう1本ソニーの「NH-14WM」という電池も手元にあって、こちらは1400mAhだそうだ。

これらの大容量電池を買ったときには「再生時間が増える」と単純に喜んでいたのだが、「ニッケル水素電池と充電器」を読んで、話はより複雑だとわかってきた。古い充電器によっては、最近の高密度な充電池をフルに充電できないらしい。PX750付属の充電器(九州ミツミのOEM)は1000mAh用に作られているだろうから、1350mAhや1400mAhの充電池で満充電できる保証はない。

2001/9/28
和文解釈

古典を読まなくちゃなという気は、前からしている。ポアンカレとかウェーバーとか。克己心にかられて読み出すこともあるのだが、たいてい中途で読めなくなる。私に古い教養がないからか、古めの訳だと日本語を読んでいる感覚がしない。読むというよりは解読をしているような気になる。英文を精読する感じに近い。それならいっそ英語で読んだほうがいいかもと考え、ペーパーバックを何冊か注文しておいた。

2001/9/27
アイ・オー・データの贈り物

同社からの小包が郵便受けに入っているのを見つけたとき、はて何事かと不審に思った。開けて中身をあらためると、折り畳み式のカレンダー・電卓・世界時計が入っている。同封の手紙によれば、ユーザー登録をした者の中から抽選で選ばれたという。こちらはそもそも抽選があることを知らなかったのだが。

それはそれで小さな幸運だと思っていたら、偶然にもこの時計を取り上げている記事があるのを知った。7ドル75セントだそうで、二束三文と思っていただけに驚く。

2001/9/26
触発されたこといくつか

山形浩生さんのサイトに掲載されているクルーグマン「経済合理性と不動産不況」を読んで考えたことをいくつか。思いつきなので、まとまりがない。

住宅価格が伸縮的でない要因を「小麦みたいな均質な財じゃない」からとしている。もう少し詳しく書くと、均質性の高い財は完全競争市場をつくり、そうでない財は不完全競争市場をつくる。この着眼点がおもしろい。ただし、その前提には住宅が耐久財であることがあるだろう。文章からではわからないけれど、賃料はどのように推移したのだろうか。

耐久財で思い出したのは、ソフトウェアは耐久財だなということ。マイクロソフトはそれを消費財のように扱ってきたのだが、ここまで資本が蓄積した(つまりWindowsをもつ人が多くなり、しかも前バージョンで満足する人も増えてきた)ときに、同様な商売をつづけるのは難しそうだ。賃料のようなかたちで、年いくらとして徴収しないと、存続が困難になる。また、耐久財でなくすのも手かもしれぬ。たとえば、セキュリティホールを故意に仕組ませておいて、数年後に情報をリークする。そして「もう開発は終了しておりサポートの予定はない」と宣言すれば、利用者は新版を買わざるをえなくなる。

前半の、人々は完全に合理的ではなく、漠然と正解に近いところを選んでいるというのは、そのとおりだろう。むかし「複雑系」経済学の本を読んだとき、計算量爆発の話があった。無数の財があれば、無数の連立方程式を解かなくては効用最大化ができない。さらに計算機には解決が困難な問題(P=NP問題とか)がある。だから近代経済学が前提としている合理的な個人は変だ――というのだ。そのときに不審に思ったのは、なぜ個人が計算機と同じ計算方法だと仮定できるのかという点。将棋差しを見ればわかるけれど、何百万通りの手の中から自動的に最適に近い解を、計算機とはちがったやりかたで人間は得ているのではないか。

2001/9/25
Mozillaに開眼

Mozilla 0.9.4(Win32版)をインストールしてみた。HTMLを表示する面では、Netscape 4.xからずいぶん改善されている。むかしから、言語ごとに書体の寸法が設定できる点がIEとくらべたときの長所だったのだが、それ以上に短所が多くてNetscapeを使ってこなかった。Mozillaは、表示能力だけについていえばIE 5.0SP2より好みだ。起動はたしかに遅いが、IEだってシステム組み込みでなければ遅かろう。QuickLaunch機能でメモリーに常駐しておけば、2度目からの起動は一瞬になる。

使い勝手には、改善の余地が多くある。(1)Navigation Toolber。Classicが主体だけれど文字はなくしたいといった細かい希望に応じられない。HomeをNav. Toolberに置きたいのだが、それもできぬ。また、SearchボタンはよいがURI記入欄が狭い。(2)キーボードでの閲覧がしづらくなった。SpaceバーでPage Downできるのに、Shift+SpaceやBackspaceで戻ることができない。(この機能の搭載にはLessillaを待たなくてはいけないのだろうか。)さらに、新規ウィンドウを開くとポインターがURI記入欄に行くので、Spaceによる画面制御が即座にはできない。

Mozillaで自分のページを見てみると、Netscape 4.x対策用のスタイルシートが裏目に出て悲しむべき事態になっている。そこで、Netscape 5以上は通常のCSSを使うように設定を変更した。

2001/9/24
方向音痴の弁

新垣紀子・野島久雄『方向オンチの科学――迷いやすい人・迷いにくい人はどこが違う?』(講談社ブルーバックス、2001年)を読む。方向音痴は、(1)空間認知能力が低い人と、(2)空間認知に障害はないがそれが発揮できない人とに分けられるという。この本が注目しているのは、どちらかという後者だ。

道に迷う人と迷わない人との比較でおもしろかったのは、移動時に注目しているものが両者で異なるというところだ。道に迷わない人は目印となる建物を意識しているのに対して、道に迷う人は関係ないことに注意がいっている。(2)型の方向音痴の人は、ふだんからさほど方角に興味をもっていないようだ。

私は自分が方向音痴であることを自覚しているけれど、たぶん(1)と(2)が混ざっているのだろうと思う。(1)の面で言えば、絵を描くのは下手ではないが、彫刻のような立体になるといけない。平面図形はまあまあだが、空間図形はわからん。(2)で言えば、学校内で自転車をどこに止めたか憶えていない。(私が「自転車がない」と言うと、周囲からは「またか」という目で見られる。)

ウィザードリィという3Dゲームをやっていたころのことだ。慣れてくると自作の地図が不要になって迷宮内を移動できるのだが、憶えかたが手続き的だった記憶がある。8回まっすぐ上に行って(操作盤の上ボタンを押して)、右に曲がって……というような感じで、地図が頭の中に入る感触というのはなかった。こういうのも、道に強い人は地図がすいすいと頭の中に入るのかしら。

2001/9/23
初心者のためのWebサーバー

サーバーの管理といったら人と金が必要だが、人ではないし予算もあまりつかないとなると、適当に外注することになる。大学という特殊事情で、IPアドレスだけは豊富にあるのと事務手続きが煩雑なのとで、レンタルサーバーにもできない。そこで、設置や保守がぜんぶ任せられる業者が求められるらしい。関係者は、ただファイルを上げ下げするだけでよい。

業者が用意なさったLinuxサーバーは、たしかに初心者でも扱えるような工夫がこらしてあった。まず、FTPクライアントは使わない。ファイル移動はSAMBAですます。ネットワーク越しの作業は危険なのでさせない。Linuxボックスの5インチベイにハブが内蔵してあって、そこに接続した計算機のみアクセスが可能。そこまでやるならWindows 9xとPersonal Web Serverでもいいんじゃないかと感じなくもないが……。

2001/9/22
翻訳の楽しみ

英語を勉強するようになった。これまで接してきた英語といったら、経済学や統計学の教科書くらいが精読の範囲で、あとは興味をもった論文を斜め読みしていたくらい。あまりに分野に偏りがあるので、もう少し幅を広げましょうという気になった。

しばらくは『ニューヨーク・タイムズ』で手一杯だったのが、近ごろは少し余裕が出てきて『エコノミスト』も読むようになった。前者にくらべると、後者の英語は凝った感じがする。できれば暗唱してしまいたいと思っているのだが、『エコノミスト』だとまず英文を感じとる段階で時間がかかる。

言葉遊びが好きな性分なので、シャレた文なんかを見るとあれこれ翻訳を考えて楽しんでいる。米国の景気回復が遅れることを懸念した「the growls of the bears are growing louder.」なんて、growlとbearが縁語になっていて素敵だ。こんなのを見ると、無理をしてでも翻訳したくなる。「景気の秋風が吹くなか、弱気の虫の音が鳴り響く」という感じかしら。

そういえば、前から気になっているのが『ブリジットジョーンズの日記』の広告に出ている「決意」で、「体重を4.3kg減らす」というもの。この中途半端な数字は何なのだろう。ポンド(約450g)に換算してもキリがよくないし(9.5lbs?)、元が4.3lbsとすると決意としては小さすぎる値になる。おまけに日本語サイトを見ると「あと10キロ体重を減らして」とあって、ますますわからなくなる。これは翻訳なのか、それとも日本語版で付け加えたものなのか。

2001/9/21
予測の焦点距離

天気の台風情報を見ていると、予報円と呼ばれるものに出会う。これは一種の信頼区間で、遠い未来であればあるほど予報円は大きくなる。流体が複雑に絡み合うので天気の予測は難しいだろうと思うのだが、基本的に近未来ほど精度が上がるらしい。

経済学は、ちょっとちがう。もちろん経済の長期予測も現時点での条件が所与としてあるわけで、先のほうは茫漠としている。2050年の予測といったところで、1950年に現代の状況が予測できたかどうかを考えれば信憑性がわかるというものだ。想定外の事態は、それこそ想定外に起こるのだから。その一方、経済理論は短期的な変動については何も説明しない。あすが円安になるか円高になるかなんて知ったこっちゃないわな。大事なのはトレンドなのよ。

さて、遠すぎても近すぎても見えないのなら、どれくらいの未来が経済にとってピントの合うところなのだろう。


2001/9/20
「わかりやすさ」とは何か

think or die」の中のエッセイ「わかりやすさ症候群」「わかりやすさ症候群2」を読んで、しばし考える。たしかに、わからないことへの耐性が少なくなったというか、すぐに結論・成果に飛びつきたがる世の傾向は私も感じる。かといって、わかりやすさを求めることが悪いことかというと、それはちがうように思う。問題の本質は、「わかる」ことが何なのかをわかっていない点にあるのではないか。

たとえば、クルーグマンの議論はひじょうにわかりやすい。筋が通っていて、モデルが比較的単純なので、自分で変数を変えて新たな結論を得ることができる。もうひとつ、「わかりやすい」という言葉から想像するのは表計算ソフトだ。計算の過程が目に見えるようになっているので、変なまちがいをせずにすむ。つまり、わかりやすいとは、考えが整理しやすく見晴らしがよいこと、結果的に思考の負担が減ることをいうのだと私は考えている。

ところが、世間で「わかりやすい」と呼ばれているものの多くは、「結果的に」ではなく「最初から」思考を不要とすることを目指しているのではないかと思われる。たとえば、「○○になった→××せよ」という対症療法的なもの、もしくは「aaaしてbbbしてcccする」という手順だけを示したもの――こういった、最初から考えなくてもいいようなものが、「わかりやすい」と喜ばれているのではないか。

2001/9/19
用紙切れの怪

現在の印刷環境(Windows 2000 SP1にLaserWriter 16/600 PS-Jをlprで印刷)でかなわんなと感じているのが、用紙切れの際の処理だ。不具合なのか仕様なのか、用紙切れのときには必ず「もう1セット」印刷されてしまう。いちばんつらいのは、単ページものを40部刷るときなど。途中で用紙が切れて補充すると、もう40部(合計80部)刷られてしまう。うちの用紙カセットは250枚までしか入らないから、250枚以上印刷すると無限ループに陥るのではないかと不安感を抱いている。

2001/9/18
蚊にかまれる

この夏は蚊の被害に遭うことがなかった。部屋に蚊取りマットを置いているわけでもなく不思議に思っていたのだが、ここしばらくで立てつづけに3カ所かまれてしまった。調べてみると、窓が5cmほど開けっ放しになっている。どうやら虫は入り放題だったらしい。

世に虫アレルギーというものがあるのかどうかわからない。私のばあいは虫に刺されると症状がけっこうひどく、右腕の患部はツベルクリン反応のようになっている。ただし直径は11mmだから、ツ反なら陰性というところだろう。もっとひどいときには破傷風のようになるが、今回はそこまでは行くまい。

おまけ。上で思い出したので注射の話

2001/9/17
A消去で行こう

WindowsをノートPCで使っていて前から気に入らなかったことに、操作を誤ってフロッピーディスクドライブ(FDD)にアクセスしてしまう点があった。この計算機にはFDDは内蔵していないから、しばらく待たされたあげくアクセスできない旨の表示が出る。腹立たしかった。

きょう、ようやく解決策を思いついた。実に単純で、デバイスマネージャでFDDを無効にすればよい。Aドライブが見えなくなるので、誤操作の危険が消滅する。

2001/9/16
文脈による読点アキの変更

『朝日新聞』2001年9月9日4面に、「内閣特別顧問 樋口広太郎氏に聞く」と題したインタビュー記事が載っていた。そこで使われている句読点に注目したい。

『朝日新聞』2001/09/09第4面より

6行目では、1行に読点が3回出現している。その処理は、「音楽も、」の読点には半角アキを施し、「長短、強弱、休止符」の中の読点にはアキを入れないというものだ。平等に空けているのではなく、並列の意味で用いている(言ってみれば中黒「・」で置き換えられる)読点のアキをわざとなくしている。

私は、「二、三日」など数字がらみの読点をどうしたものかと悩んでいた。文の構造の分岐点にしか読点を用いない立場からすれば、ここで打たれるのは感心しない。のみならず、読解の際に引っかかってしまう。かといって「二三日」とすると二十三日と誤読される危険がある。こんなふうにアキを変えるのも1つの手かなあと感じた。

2001/9/15
もっと主観を

パソコン関連商品の評価について、紙やWebを含むパソコン雑誌のそれよりも個人ページのほうが役に立つことがある。もっと強く言えば、パソコン雑誌の評価記事が役に立ったことは、あまりない。その多くが、カタログの仕様を見ればわかるような、書かなくてもいいことを書いていている。反面、手にとってこそわかる部分を書いていない。

カタログには載っていなくて記事に載せるべきことを分類すると、おおよそ3種類になる。(1)測定すれば数字で表現できること……キーピッチ、ストロークの深さ、画面の明るさ、騒音の大きさなど。(2)観察すれば言葉や写真で表現できること……各種ポートの位置、ハードディスクの位置など。(3)言葉で表現するしかないこと……キータッチ、ボタンのおしやすさ、音の質感、画面の色合い、安定性。

私が記事にいちばん求めているのは、(3)の部分だ。(1)や(2)の点は、製造業者に聞けばわかる。日立のノートPCのページを見れば各種ポートの位置の写真が掲載されているが、これはこちらから頼んで載せていただいた。ところが(3)だけは、実物を手にとってみなくてはわからない。たとえば某社のノートPCは、安物と高級品とで品質がずいぶんちがう。高級品のキータッチやボタンの押しやすさに惚れ込んで安物を注文すると、痛い目に遭うだろう。

(3)に関する部分を書くとなると、その評価はもちろん主観的になる。それは当たり前で、客観的な評価が存在するなどという幻想を捨てたほうがよい。(数字で表わせるからといって客観的になるわけではない。なぜ「3D性能」のベンチマークが大事なのか?)主観的であっても一貫性があれば、自分の好みに合うかどうかは読者が判断できる。個人ホームページは最初から客観幻想を捨てているので、私には役に立つ。

2001/9/14
下の話題は社会厚生関数に帰着するか

9月13日の話を経済学的に述べれば、「人びとが気にするのは(期待収益ではなく)期待効用である」という命題に達する。そのあとでしばらく、13日の議論は結局のところ社会厚生関数の話に帰着するのかしらと考えていた。いわゆるピグーらの古典的な社会厚生関数では、「金持ちから貧乏人への所得移転は,貨幣の限界効用が金持ちより貧乏人の方が大きいならば,必ず社会厚生を高める」(武隈慎一『ミクロ経済学』〈新世社、1989年〉)。

話を簡単にすれば、こういうことだ。いま、貨幣の効用関数がみんな同じでy=\sqrt{x}(ルートx)で表わされるとしよう。舞台は10人からなる社会で、それぞれの人が100円ずつもっている。効用の総和は、1人当たり\sqrt{100}×10人分で100になる。このとき、その社会で何らかの災害が発生したとしよう。損害額は100円とする。

(a)損害を1人で被った場合。1人の資産は0、残り9人は100だから、効用の総和は1人当たり10×9人分で90になる。(b)損害を全員で分担した場合。10人の資産が90になるから、効用の総和は1人当たり\sqrt{90}×10人分で94.86になる。負担の分担のしかたは無数にあるが、総効用は(a)のとき最小で(b)のとき最大である。

それで結局、下の話は以上の議論と同じなのだろうか。なんかちがうと思うんだが、まだちゃんと説明できないでいる。

2001/9/13
幸不幸の天秤

宝くじをまねつつ、その特性をひっくり返した「不幸くじ」を考えてみよう。すなわち、そのくじを入手すれば1枚につき100円なり300円なりがもらえる。しかし、1等に当たると5000万円なり1億円なりを支払わなくてはならない。宝くじとちがって、期待収益は正である。さて、あなたはこのくじに参加するだろうか。

おそらく、多くの人は参加しないだろう。むしろ人びとは逆に、期待収益が負であっても巨額の損失を避けようとする傾向がある。たとえば、保険という制度がよい例だろう。保険の掛け金は、多くのばあいムダになる。しかし保険に入っていれば、万が一の際の損害を減らすことができる。

以上から導かれる帰結は、幸不幸が人間に与える影響は対称ではないということだ。多少のひがみはあるだろうが、特定の個人に対して大きな幸運を与えるのは悪くない。しかし、大きな不運を与えるのは避けるべきである。

たとえば中高年の首切りは、当人にとってたいへん大きな不幸だ。この不幸のうち、当人の責任はどのていどの割合を占めるのだろうか。多分に運の要素が大きいのではないか。ある人が首を切られ路頭に迷う中で、またある人は大した仕事もせずに給与を得る。私には、こうした状況が好ましいとは思えない。

他の雇用者の賃金を少しずつ減らせば、その賃金で首切り者を雇用できるはずだ。そういった、痛みを分かち合う方法はいろいろある。ワークシェアリングは、その代表例だろう。しかし、最も簡単に実質賃金を下げたければ、インフレにもっていけばよい。もちろん政治的な説得が必要となるが、名目で下げるよりはよいだろう。

2001/9/12
Windowsへの願い

Windows XPが出る。私は現状におおかた満足していて、動作を鈍くさせてまで新OSを入れる気はない。ただ気にかかるのは、いつかWindows 2000もサポートがなされなくなって、セキュリティホールが発見されても放置されるであろう点だ。毎年サポート料を払ってもかまわないから、マイクロソフトがパッチを配布しつづけてくれればよいのだが。

2001/9/11
ブタもおだてりゃ空を飛ぶ?

The New York Timesに連載されているOp-Ed ColumnsでPaul Krugmanの「Greenspan Stands Alone」を読んでいるとき、「pigs might fly」という表現に出会った。ブタが空を飛ぶかもしれない――どういうことだろう。

その前には、米国が財政政策で経済失速を食い止めたいならブッシュは2004年以降の大型減税を撤回していま減税すべきだ、という話がある。それで、ブタでも空を飛ぶことがあるかもね(ブッシュ政権もひょっとすればやってくれるかもね)と解釈した。頭の中には「ブタもおだてりゃ木に登る」という諺も浮かんでいた。

だが、上の私の解釈はひどい誤りである。「The Phrase Finder」で検索して見つけた投稿を読むかぎり、「できもしないことを当てにしたってしょうがない」という意味だ。日本語にも同意の諺や故事成語がありそうで探してみたけれど、見つけることができなかった。

追記010920。山下正男『論理的に考えること』(岩浪ジュニア新書、1985年、p.52)に、この表現が載っていた。日本語で言う「太陽が西から昇る」とか「赤い雪が降る」ていどの非現実性を表わしているそうだ。この本は高校時代に読んだはずなのだが、上の表現はすっかり忘れていた。


2001/9/10
IE検索窓の謎

私の環境(Windows 2000 SP1)に限定して起きることなのかもしれないが、Internet Explorer 5.01SP2で些細な問題に悩んでいる。Ctrl+FとEscとによって検索窓の開閉をくりかえすうち、検索窓が出てこなくなるのだ。これは再現性確実で、多くとも開閉を5度くり返せば確かめられる。

検索窓

IEを5.5にすれば解決されるかと思い試してみたが、改善は見られなかった。理由はわからない。

2001/9/9
「坊っちゃん」に見る教師の待遇

夏目漱石『坊っちゃん』を読むのははじめてである。小中学生の時分に夏休みの課題図書の中に入っていただろうが、そんな有名なものは大勢の人が読むから私には必要あるまいと、はじめから相手にしていなかった。

偶然ながらそれを読んでみると、当時の社会風俗や物価がわかって、なかなかおもしろい。特に、中学校教師の待遇の話に興味をもった。

それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通が出来るかも知れない

君の増給は古賀君の所得を削って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余を君に廻わす

上を見たかぎり、当時は学校の予算が決まっていて、校長が経営をしていたような感がある。現代よりも校長の裁量が大きかったのだろう。

2001/9/8
ひらがなと楷書

ひらがなは漢字の草書に由来しているのだから、それを楷書で書くというのも因果な話だ。

2001/9/7
文体模写その2

ハードディスクを検索していると、文体模写の変種がさらに出てきた。たしか、投稿しようとしていた矢先にノートPCが故障して、思いを果たせなかったと記憶している。そういうわけで、以下は初公開の品々だ。

森毅(90年代エッセイ編)
 毒虫になってから二カ月ほどになるが、それほど不便を感じていない。ある人は歩きにくいでしょうと言ってくれたが、僕は年中ゴロゴロしているから、さほど気にはならない。変身したんだからと、むしろ堂々とゴロゴロしている。
 養老孟司に聞いたのだが、人間のような極端に脳に偏ったあり方は異常で、そういった集中神経系の動物は環境の変化に弱いのだそうだ。僕はコンピュータは紙にパンチしてプログラムしていたころしか知らないのだが、ネットワーク時代というのは昆虫向きなのだと思う。集中よりは分散。

福沢諭吉(『変身論之概略』)
 独逸国可不可の「変身」に曰く、其男起床するや否や身体に毒虫を見たりと。西洋各国変身譚甚だ多し。是を以て毒虫を変化の最上と看做す者あり。毒虫ならずとも蜻蛉鍬形蠅藪蚊、凡そ昆虫に変化することあらば意気揚々とす可しと云ふ。
 然るに爰に余輩をして大いに不審を抱かしむる所のものあり。其故は何ぞや。世間一般の通論に於て専ら毒虫の一方に注意し、変化の内実を看過するの弊なきに非ざるの一事なり。今試に毒虫に非ずして百足に到らしめなば如何。天下の形勢は一事一物に就いて臆断す可きに非ず。

丸山真男(『「変身論之概略」を読む』)

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  朗読  文一五一頁三行−一五四頁一二行
        全九八頁一一行−一〇〇頁五行
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つまり、毒虫になったという結果ではなしに、変身したという内実の方をヨリ重く受け止めているという点は、福沢の卓見と言うしかありません。
 現憲法を例にとっても、あれは連合軍の言いなりで作ったのだから変更すべしという声もある。しかし重要なのは、その内容を考慮することなのですね。改憲を主張する方々には、ぜひ福沢のこういった点を学んでほしいと思います。
 ちなみに、カフカはドイツ語で作品を書いていましたが、生まれはドイツではなくプラハです。恐らく福沢はオランダ語を通してカフカに接したのでしょうから、この程度の誤謬は避けられないことかもしれません。

2001/9/6
文体模写その1

森毅の引用をしていて思い出した。2ちゃんねるでカフカの『変身』を文体模写する話題が昨年の夏ごろにあって、私は森毅で2回投稿したのだった。懐かしさがこみ上げてきたので、自分自身の文章を引用しよう。

森毅(回想・60年代編)
――ザムザさんが朝起きたら虫になったとのことですが。
 そんな奴やったら、けっこう京大におったよ。あのころは僕も若かったから野次馬してたけど、本人それほど困っとらへんかったで。足が増えて便利や言うとった(笑)。「ザムザ変身問題の総括」っていうレポートを書いた奴もおって、よう出来てるから単位やった覚えがある。
――ですが、彼は数学教室のホープだったわけで。
 うん。小針なんかわりかし涙もろいから、ごっつう同情はしてたみたい。せやけど、僕はそのへんドライというか割りきっててね。ポントリャーギンっちゅうのは盲目の数学者で、彼は四次元が見えるなんてホラ吹いてたけど、虫には虫にしか分からへん数学があるかもしれんから、むしろラッキーと言うことも出来る。

森毅(70年代エッセイ編)
 僕は数学少年であると同時に昆虫少年でもあったから、少しひいき目に見てしまうかもしれないのだが、一生のうちに二回や三回、毒虫になるのも悪くないと思う。
 近ごろの大学生を見ていると、わざわざ想像で硬い殻を作って、そこに自分を入れ込もうとしているのが多い。それだけなら背伸びをしている、と大目に見られぬこともないが、殻の破れることを恐れて外部との接触を遮断するようになるとかなわん。そうした生き方を自由という向きもあるが、それはむしろ自閉である。
 自分が毒虫であることを自覚すれば、毒虫に徹するよりない。普通人に戻ろうとすればするほど、かえって世間の目は冷たくなるものだ。毒虫であることに居直ってしまえば、いつか一皮むけたと感じる時が来るであろう。それが「脱皮」というものだ。

2001/9/5
ポッキリ効果

「日経平均、一時1万1000円割れ」とか「TOPIX、1100ポイントをめぐる攻防」といった表現を各種ニュースで見るにつけ、この感覚が合理的なものなのかどうか自信がもてなくなる。なぜ「1万1000円」というキリのよい数字だけが特別に重要なのか。「1万2345円」や「1127ポイント」を気にしてはいけないのか。むしろ、昨年から○○%下落といった表現のほうが適切ではないのか。

もっとも、ミレニアムを殊さらに祝ったりすることを考えれば、合理的かどうかの判断は保留しておくとしても、人びとがキリのよい数字に着目する傾向があるのは事実だろう。この現象をポッキリ効果と呼ぶことにする。そこで疑問。経済学はポッキリ効果を利用しているのだろうか。

金融工学方面の知識は(も)あまり詳しくないが、株価に関しては収益や株価の絶対額を取り込んだ理論を私は知らない。(為替については、たとえば目標圏という発想がある。)インデックスはそれでもいいかもしれないが、個別株の動きを見ているかぎりポッキリ効果は否定できないのではないかと思う。これは統計にとったら興味深そう。

経済学では、効用が序数的であることが強調される。ある効用関数があるとき、その値が2倍になったからといって嬉しさも2倍になったわけではない。効用関数の大きさの差異は、単に順序を記述しているにすぎない――という筋だ。それでも私には、100円の2パーセントと100万円の2パーセントが同じには感じられない。これは、限界効用云々の話ではない。

森毅『受験数学術指南』(中公新書607、1981年)より。

口頭試問というのは、ときに紀元二千六百年、「今年はどういう年か」「ハイ、紀元は二千六百年、めでたい年です」「なぜ、それがめでたいのか」「ハイ、皇統がこんなにも長く続いたことは、世界に類を見ないめでたいことです」

われながらアホラシイと思いながら、参考書通りのソツのない受け答えをしていると、テキはニヤリと笑って、「長ければめでたいのなら、二千六百一年はもっとめでたいやないか」と来た。ハハーン、こらテキさん、少し退屈してるなと、「そりゃその通りで、二千六百二年になったら、もっとめでたいわけですけど、毎年めでたがってたら、人間がオメデタクなりすぎるから、チョッキリのとき祝うよりしゃあないでしょ」と言ったらテキはゲラゲラ。これで合格したと思ったな。

2001/9/4
バイオライトの夏

バイオライトを購入して3年目の夏を過ごした。何度でも強調するが、目が疲れやすい人はこのスタンドを買うべきだ。インバーター電気スタンドから変更して以来、連続して本が読める時間が3倍ほど長くなった。それまでは2時間ほど読みつづけていると目がシバシバしていたのが、バイオライト導入以降は最大7時間ほど読めるようになった。

しかし、欠点がある。60Wのミニクリプトン球を使用しているため、かなりの熱を発するのだ。ことし東京は7月下旬が特に暑かったし、8月に入ってからは隣の工事のために窓が開けられなかった。バイオライトをつけて冷房を入れたりすると、健康と環境は両立しないななどと皮肉な気分になる。

おまけ。私と似たような感想を書かれている「好奇心 on the web」というページを見つけた。

2001/9/3
「ねじれ」云々

木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書、1981年、p.123)は、次のような文を「格がねじれている」と主張し、批判している。

われわれは蒸着膜の成長初期過程の研究に適した水晶振動子型膜厚計を考案・試作し,その結果,蒸着実験において±1×10-8の周波数安定性がえられた。

この主張に、私は何か釈然としない思いを感じてきた。それは大きく分けて2つあって、(a)ほんとうにこれはねじれ文なのか、(b)格がねじれているのは悪いことなのか、である。ただし、(a)と(b)は関連している。もっと早い話を言えば、私自身は上の文にさほど違和感を感じないのだ。

まず単文から考えよう。「彼は背が高い」は、いわゆるハガ構文で適格文である。「彼は水泳ができた」はどうか。私は適格だと思う。「彼はその服が着られた」「彼はその問題が解けた」もよいと考える。ただし、可能動詞にともなう「が」は副助詞で、厳密にはハガ構文とは構造が異なる。では、「彼は資金がえられた」はどうだろう。理屈から言えば、同じ可能動詞として許容されるはずである。

以上の議論が認められれば、こんどは重文にしてみよう。「われわれは……を試作した」「われわれは……がえられた」をまとめた「われわれは……を試作し、……がえられた」は許容されるだろうか。

ここで厄介なのは、「は」の兼務のしかただ。「……を試作した」の文の「は」は、格助詞を顕題化したものである。一方、「……がえられた」の文の「は」は、純粋に題目としての「は」だ。したがって、「彼はよく遊び、よく学んだ」というような単純なまとめではない。だが、このことをもって格がねじれていると言えるのだろうか。私は言えないと思うが、仮に木下先生の意見を受け入れたとしても、それは悪いことなのだろうか。

この時計はFM音源を内蔵しており、定時に音楽を鳴らすことができる。

嵐山は紅葉がすっかり色づいていて、1年で最も美しい姿となっている。

いま記した文は、いずれも先生の流儀でいえば「ねじれ」た文だ。しかし私には、まったく自然に感じられる。「彼は30時間かかってその問題を解いた」という文も「ねじれ」ているが、これを「彼は30時間かけてその問題を解いた」とすると、ややニュアンスが異なるような印象を受ける。

2001/9/2
Microsoft FAX覚え書き

私は比較的FAXを送るほうで、Windows 2000に標準で付属しているMicrosoft FAXを利用している。その過程で起こった問題と、その解決方法を記す。

FAXにキューがたまって削除できなくなったときは? 〈プリンタ〉-〈FAX〉で右クリックし、「すべてのドキュメントを取り消し」を選択する。

デフォルトの送信先がうっとうしくなったときは? アドレス帳を使わずにFAX番号を直接入力したばあい、それがずっとデフォルトの宛先として残ってしまう。消去するには、regeditでHKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Fax\UserInfoの中にあるそれらしきキー(何か忘れてしまったが、Lastなんちゃらだった)を消去する。

2001/9/1
住めば火星

川村浩『脳のなかの時計――からだのリズムとどうつきあうか』(日本放送出版協会、1991年)によれば、体内時計の同調できる範囲は24±5時間だそうだ。したがって、もし地球人が近郊の太陽系惑星に居を構えようとするなら、自転周期が地球と近い星を選ばなくてはならない。幸いなことに、地球からすぐ外にある火星の自転周期が24時間22分で、ここなら住めそうだという。